黄昏ウイスキー  TWILIGHT WHISKY

大阪は京セラドーム前の小さな本格的BAR「BARin」の日記 

エリザベス女王の一つ歳下

エリザベス女王が生まれたのが、

大正15年、その年の暮れに、

少しだけ、昭和元年があり、

故に次の年が、昭和2年となる。

 

その昭和2年に生まれたのが、

私の母、今月の1日に95歳になった。

10代で大阪大空襲を経験し、

兎に角、一番初めの空襲が長かったと、

 

いつも話していた。大阪大空襲は、

合計8回行われ、堺大空襲も、

その中に含まれる。

初めの空襲が長く、気が付けば、

 

朝日が昇ったと言うが、

本当のピンチは、二回目で、

我が町大正区は、壊滅的な被害に会う、

鉄鋼関係、造船関係が多かったからだろう、

 

しかし、最も危なかったのは、

その二回目の空襲の時、

母は、大きな保険会社で働いていて、

その会社への出勤途中の、市電の中、

 

機銃掃射に襲われる。

大きな音の連射と共に窓の外に、

砂煙が上がったと、弾が少し反れたようだ。

父が良く言っていた。

 

何も戦争に行った人達だけが、

苦労をしたのでは無い、

内地の人達も苦労したと、

それを忘れてはいけないと、

 

確かに、私らも含め、

現在の若者とは、境遇が違い過ぎる。

出勤途中に機銃掃射に会う事は、まず無い、

しかも、この時、母は親戚の女の子二人を、

 

預かっていた、小学一年生と小学三年生に、

加えて、祖母と、叔母も居たのだから、

大変だっただろう、空襲が始まれば、

幼い子達の手を離してはいけないと、

 

それしか、考えてなかったと、

防空壕は、何処に行っても、

「あっちへ行け!」「入って来るな!」の、

連続だったと、笑っていたが、

 

いや、それは戦争よりも、

遥かに人間の方が恐いではないか、

数年前、父が亡くなってからは、

病院と併合している。

 

家の近くの施設に入ったが、

その後、このコロナ騒動が起き、

面会も出来ない状態になった。

その母が熱を出したと、昨日連絡が、

 

検査の結果、陽性だったと、

高齢故に、状態は良くない、

しかし、想定内の範疇で、致し方ないが、

折角、大阪大空襲も生き延びて、

 

戦中、戦後のどさくさに、闇米を買い求め、

高度成長期を駆け抜けて、

気が付けば、歳を取り、

その挙句がコロナでは、

 

全く何一つ、言葉が思いつかない、

私にはどうする事も出来ないが、

踏ん張って欲しい、子供の時、

母が毎日聞いていた歌を思い出した・・・


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