大阪大空襲の夜に、私の母は逃げていた。
大阪は大正区で空襲にあった母は、
親戚の幼い女の子を二人連れ、
二人の手を両の手で掴み、
この手を離さない、この手を離してはいけないと、
そればかりを考えていたと言うが、
どこをどう逃げたのか覚えていないと、
気がつけば明るくなっていたと、
そして両の手は離さなかったと、
この二人の幼子は母の叔母の娘だった。
1945年、昭和20年、
母、幸子18歳の時の体験、
今の私の次女と同じ年、
あの子にこんな事が出来るだろうか、
降り注ぐ焼夷弾の雨を掻い潜り、
幼き娘さんを二人連れ、暗闇の中、
火の海を逃げれるだろうか、
いや、私とて出来るのだろうか、
どこからどう来るのかも解らない爆撃、
大体どこに逃げればいいと言うのだ。
母が言っていたが、
防空壕に行けば、
「一杯だからあっちへ行け」と、
言われたと、
ご存知無い方も多くなってきたが、
この大阪大空襲は、一回では無い、
第一回目の1945(昭和20)年
3月13日23時57分〜14日3時25分(約3時間半)
8月14日の1945(昭和20)年
13時16分〜14時1分(約45分間)
終戦間際の8回目まで続くのだ。
この8回目はJR京橋駅に1t爆弾を投下、
大惨事を招く、京橋空襲だ。
火の手がすぐ近くに上がったと言う母の言葉から、
この時の空襲は、第一回か第二回
夜だったと言うので、それなら、第一回、
第二回では港区は壊滅的被害を受け、
大正区の沿岸部も焼き尽くされる。
両区とも造船に関する工場が多かった為だろう、
母が確か「バババババッ」と後ろで、
音がし、とっさに伏せたと言っていたが、
機関銃、空襲で機関銃が使えるのか・・・
空襲とは夜に行うものだと言う固定観念があったが、
恥ずかしい事に、数年前に知ったのだが、
第二回は9時28分〜11時0分(約1時間半)の午前中なのだ。
この時初めて「P−51ムスタング」が来襲、
機銃掃射を行っている。
この音だったようだ。
この「P−51ムスタング」が何処から飛んできたのか、
そう「硫黄島」だ。
一回目と二回目の記憶が混ざっているのだろうと思っていたが、
私が正確に把握していなかったのだ。
B−29を大正区の高射砲で落とした事、
パンプキン爆弾が平野区に落とされた事、
機関銃で狙われた事、
母の記憶は全て記述と一致している。
空襲の最中に機銃掃射とは正に地獄の所業、
人間が人間にすることでは無い、
その時一発でも母に当たっていたら、
このブログは存在しなかった事になる。
なんと言う事をするのだ。
「P−51 ムスタング」
当時としては軽装備だったと言うが、
NA−73なら4丁の12,7mm機関銃と、
さらに4丁の7,62mm機関銃を備えている。
12,7mm・・・そんな物が人に当たったら体は、
バラバラになるだろう、
正に鬼畜米英・・・
その時、母と一緒に逃げた二人の娘さん、
私とは血の繋がりはかなり薄いのだが、
子供の時は、私は叔母さんだと思っていた。
この二人の叔母さんが夏休みになると、
毎年、交代で私を預かってくれた。
一人は奈良は吉野の山の奥、
もう一人は大阪の下町、生野区
私の記憶の中ではどの親戚よりも、
いや誰よりも、
このお二人が私を手厚く、そして親切にしてくれた。
火の海の中を手を繋ぎ逃げてくれた
母への感謝だったのだと言う事に気付くのに、
申し訳ないが何十年も掛かってしまった。
ここまでが私が子供の時に聞いた記憶なのだが、
正確な事を書くために、
先日の夜、母に連絡を入れた。
かなり詳しく証言を聞いた。
二人の娘さんは当時、
小学校1年生と、3年生だったと言う、
そしてそれは第一回大阪大空襲だったと、
いつまでも続く空襲に、
このままずっと終わらないかと思ったと、
そして機関銃の音を聞いたのは、
やはり第二回、
仕事に行くために乗った。
市電の中にいた時だったと、
後ろから「バババババッ」と音が鳴った瞬間、
その市電の両脇に煙が上がったと、
伏せたのはその市電のイスの下に潜り込んだらし、
あ、危ない・・・逃げろ幸子・・・
そして私はその鬼畜米英が造った酒を、
今夜も語るのか・・・
2014年3月13日の深夜に、
「大阪市内で戦争と平和を考える」
〜大阪大空襲〜
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/o-kuusyuu1.html