「大阪から世界へ」
徴兵検査で乙種合格、
入隊を免れた竹鶴青年、
すぐに「摂津酒造」に契約の更新、
期間延長を申し出る。
すると社長「阿部喜兵衛」は快諾、
なんと心の大きな方だ。
いや、既にこの社長は、
竹鶴政孝の可能性を、
高く評価していたのだろう、
そして、入隊せずに済んだ事で、
「阿部喜兵衛」は竹鶴青年を呼ぶ、
「スコットランドで本格的にウイスキーを学ばないか」と、
入社僅か一年足らずの青年に、
「阿部喜兵衛」豪快な男だ。
しかし、冷静に考えると、時は第一次大戦中、
世界が混乱する最中に、海外に行くと言う、
不安をどう押さえ込んだのだろう、
いや、不安以上に、熱き、そして大きな夢があったのだろう、
1918年この「阿部喜兵衛」の命を受け、
竹鶴青年は海を渡る事になる。
目指すは勿論スコットランド、
この当時の日本のウイスキーは、
アルコールに水を入れカラメルで色をつけ、
エッセンスを入れて香りを加える。
そう完全な模造品、イミテーションだった。
のちに赤玉ポートワインも、
ポルトガルから抗議を受ける有様、
そこで模造品に限界を感じ、
疑問を抱いていた「阿部喜兵衛」は、
国産ウイスキーを誕生させるべく、
竹鶴青年に自分の夢を託す、
しかし、その旅は今とは違い、
かなり困難なものだっただろう、
世界は大戦の最中なのだ。
まるで大正時代の「ジョン万次郎」となった。
竹鶴青年、サンフランシスコに到着し、
まずカリフォルニアの州都サクラメントに行き、
昼間はカリフォルニア・ワイナリーで実習、
夜は英会話の訓練という日々を
一ヶ月ほど行う、
何故、いきなりカリフォルニア・ワイナリーで、
実習出来たかと言うと、
地元、忠海中学時代の先輩に高井誠吾さんという方が、
カリフォルニアでイチゴの栽培をしていたが、
この方の紹介だったと言うが、
これも奇跡の一つだろう、
そしてカリフォルニアワインの大量生産を垣間見た。
竹鶴青年、こんな言葉を残している。
「アメリカ人はよい酒をつくる国民性に、
どうも欠けているように私には思えてならない」
この時既に、ニッカウイスキーの、
鼓動は始まっている。
そして、ニューヨークへ、
そこから、待望のイギリスに、
しかし・・・
新たな奇跡の音が聞こえる。
つづく・・・