「卒業」
桜は咲いていただろうか、
1916年(大正5年)3月、
日本のウイスキーの父、
「竹鶴政孝」氏は、
大阪高等工業学校、これは後の旧制大阪工業大学で、
現在の大阪大学の醸造学科にて学ぶ、
竹鶴氏の出身は現在の広島県竹原市で、
地元の学校の一つ後輩には、
のちに総理大臣になる「池田勇人」氏がいるが、
当時は竹鶴氏の布団の上げ下ろし係りだったと言う、
その大阪高等工業学校の卒業を春に控えた時、
最初に竹鶴青年に手を差し出す男が居る。
名を「岩井喜一郎」
竹鶴青年の先輩に当たる人物、
新しい酒、洋酒に興味があった竹鶴青年、
先輩である。
「摂津酒造」常務であった岩井氏を尋ねる。
今で言うOB訪問であるが、
当時は求人雑誌等も無く、
自分で出向くしか無かったのだろう、
しかし、この時竹鶴青年は腰掛け、
期間限定のアルバイトのようなものだったようだ。
何故なら、12月に徴兵検査を控えていた為で、
柔道経験者の竹鶴青年は、いや誰もが、
必ず甲種合格し、入隊すると思っていた。
しかし、そういう状況の竹鶴青年に、
もう一人、手を差し延べる男が居た。
名を「阿部喜兵衛」
「岩井喜一郎」の勤める。
そう「摂津酒造」の社長である。
いきなり尋ねて来た青年、
しかも期間限定、
が、採用し竹鶴青年の希望通り、
洋酒の製造部門に配属させる。
何たる幸運と思うが、
臆せず自分で出向いたのは、
竹鶴青年であり、
その事により道が開く事になったのだ。
そして醸造科で学んだと言う、
立派な肩書きもある。
根拠の無い自信では無い、
道は自分で切り開く、
そう、竹鶴政孝が今の私達に、
語りかけているようだ。
が、私はこうも思う、
これは大阪と言う土地が持つ、
独特の空気なんだと、
大阪の商売人気質とでも言おうか、
見知らぬ人が尋ねて来ても、
気さくに対応し、
声は大きくガサツで野暮な人も多いが、
この面倒見のよさだけは、
どの町にも負けないと思う、
故にこの酒造会社が大阪にあった事、
それが良かったのだと、
国産ウイスキーの道を開いたと、
私は信じている。
大阪商人の心意気、
今は無き「摂津酒造」
竹鶴政孝が自分の足で尋ねた場所、
大阪のどこにあったか、それは・・・
私の町のすぐ隣・・・
ご存知だっただろうか?
つづく・・・