黄昏ウイスキー  TWILIGHT WHISKY

大阪は京セラドーム前の小さな本格的BAR「BARin」の日記 

大阪ウイスキー物語 3

「名声」

「岩井喜一郎」の計らいで「阿部喜兵衛」が社長を務める。
「摂津酒造」に入社する事になった。
竹鶴青年、ここで最初の功績を残す、
赤玉ポートワイン」だ。


入社してすぐに技術主任となった。
竹鶴青年、その年の夏、
店先でブドウ酒の瓶が,
次々と破裂すると言う怪事件が起きる。

これは今では簡単な事なのだが、殺菌が不十分な為に、
夏の暑さで酵母が発生増殖したのだ。


が、竹鶴青年が世に送った。
赤玉ポートワイン」は徹底した殺菌が行われ、
一つも割れる事が無かったと言う、
これで一気に竹鶴政孝と言う名が、
酒造業界に響き渡る事となる。


赤玉ポートワイン
よく耳にする名前だが、
当時「寿屋」と名乗っていた。
そう現「サントリー」さんのドル箱商品、
あの「赤玉ポートワイン」なのだ。


当時は画期的なポスター
モデルは赤玉ポートワインを売り込むため、
赤玉楽劇団なるものが作られ、
そのプリマドンナである松島恵美子さんを、
起用したヌードポスターのお陰で、


空前の大ヒット商品となるのだが、
今「赤玉ポートワイン」と言うものは存在しない、
ポートワインとは、元々はポルトガル産のワインの事、
なので商標権の問題でポルトガル政府が抗議、
1973年(昭和48年)に現在の名称である
「赤玉スイートワイン」に改めている。


驚くのは、1966年公開の「007は二度死ぬ」にも、
登場するとあるが、サントリーオールド達磨は、
発見したが、ポートワインは、見掛けていない、


赤玉ポートワイン
このあたりで既に、
技術のニッカ、広告のサントリーが象徴される。
徹底した技術者と徹底した営業マン、
竹鶴政孝」と「鳥井信治郎


では何故「赤玉ポートワイン」を竹鶴青年が造っていたか、
それはこの当時、製造会社と販売会社が分かれていたのだ。
製造側の「摂津酒造」と販売側の「寿屋」と言う事だ。


そして、またもや竹鶴青年に奇跡が起こる。

              つづく・・・