なのだが、コロナの動乱で、
良く解らなくなった。
が、もうすぐ終わってしまう、
しかし、コロナ自体も恐いが、
生活のリズムが完全に、
狂わされたのも恐い、
その麒麟が来るで、
面白いニュースが出ていた。
渡邊大門氏の書かれたコラムだが、
私も以前、少し調べたのだが、
第一、第二木津川口の戦い、
志摩の九鬼水軍VS毛利水軍の、
海戦なのだが、
第一の戦いで、毛利水軍の、
焙烙矢火、火薬を用いた兵器の、
攻撃に合う九鬼水軍だが、
その後、僅か二年で、
装甲船6隻を完成させ、
第二の戦いに挑むのだが、
僅か二年で装甲船を6隻、
凄い技術集団だと思っていたが、
氏のコラムに、木造船に、
鉄の板を貼っていたと、
私もそう思っていたが、
では無い可能性があると、
ただ、黒く塗っていただけ、
と、毛利水軍と激突では無く、
単なる威嚇だったのでは、
の、ような事が書かれていて、
非常に興味深い、
が、私の興味は、その装甲船では無く、
場所なのだが、専門家では無いので、
正確な事は解らないが、
その木津川口の戦いは、
多分、私が毎晩カウンターに、
立っている辺りだと思う、
この当時、まだ我が町大正区は、
存在していない、
小さな島が点在していた。
ほぼ大阪湾で、この後の、
大坂冬の陣、夏の陣が、
終わってから、埋め立てが、
中村勘助(木津勘助)によって、
行われる事になる。
故に、間違いないと思うが、
又、少し調べてみよう、
自分の町の歴史なのだから、