しかし、まあ大阪城なのだが、
築城400年、
400年も前に、
これだけの石垣を重機も無しで、
どう運び、どう積み上げたのだろうか、
不思議だ・・・
不思議だ・・・
冷静に考えてみると、
マジか!!
大体こんな大きな石、
どこに有ったんだ?
石の模様が、
タコの頭のように見えるから、
「蛸石」と言うらしい、
ガイドのおじいさんが自分自身を指差し、
俺に喋らせろと言わんばかりに教えてくれた。
船で運んだんですよと、
「昆布じゃ無いんですか?」
と、聞き返すとギョとした顔をして、
歯切れ悪く、
「さ、最近、そんな話もありますね」と言った。
昆布を水で濡らし油のようにして、
その上に石を置き、
街中をズルズルと引っ張ったと、
その後、道に落ちていた昆布を大阪の人は拾い、
ダシを取ったと、
故に関西は昆布ダシだと、
本当かどうかは知らないが、
そんな話を最近聞いので、
聞いてみたが、
ガイドの人がマニュアルに無い事には戸惑うと言うのは、
全国共通のようだ。
しかし私が知りたかったのは、
これなのだが、
この建物、私と同じ年のようだ。
その近くに、
「軍師官兵衛」にも登場した。
「石山本願寺推定地」
が、ありこの説明書きの後ろに、
これはある。
井戸のようなのだが、
一人、少し詳しく書かれている方が、
このネット中に居たが、
なんか、凄い厳重に鍵まで、
下の両側に隙間がある。
手をかざすと、
下から吹き上がる風を感じる。
どこかに繋がっているのか?
大阪城には地下通路があり、
戦時中はそれで行き来していたと、
が、大阪城にはそれ以前にも、
「真田幸村の抜け穴」伝説がある。
又、地下の下水道も400年以上経った今でも、
健在で「太閤下水」と呼ばれている。
確か初代ウルトラマンでも、
それもこの抜け穴伝説から来ているのか?
しかし、ゴモラが隠れれるとは・・・
どれだけ大きいのだ・・・
余談だがそのゴモラの顔のデザインは、
「黒田官兵衛」の息子「黒田長政」の兜のようだ。
ん?そうなのか、しかし長政の兜は、
四角い鉄の板のような物が付いている方が、
印象深いのだが、
で、何だったっけ?
ん?まあ、いいか・・・
いつか又、来よう、
さよなら!大阪城!
今度は日本人で一杯になっている事を願う!
戦後70年、大阪城内の軍の施設だった場所には、
屋根を突き破り、大きな木が顔を出していた。
この木が未来永劫、
有り続ける事を心から祈る。
安保関連法案が
衆院特別委で可決された日にこの記事を、
記す・・・