まあ、そうだろうが・・・
とある夜、
先日書いた。
伊能忠敬の話になり、
青年と話していた。
その時の会話だが、
伊能忠敬=地図を作った人、
まあ、正解ではあるが、
こう言われた。
伊能忠敬=初めて地図を作った人、
これは、間違いである。
正確には初めては、実測図である。
それ以前にも地図は存在している。
私のブログには、
時折、前振りがあるのだが、
この方をご存じだろうか、
赤水 長久保赤水(ながくぼ せきすい)
水戸藩の漢学者である。
幼少期に両親を亡くし、
努力に努力を重ね、
地理学に精通して行く、
そして、1779年、
伊能忠敬の伊能図より、
42年前、緯線と経線を用いた。
日本地図「改正日本輿地路程全図」を、
出版し、地図の大衆化に貢献、
通称「赤水図」は大ベストセラーとなる。
のだが、その出版した場所が、
大阪のようである。
しかし、驚くべきは、
その精度の高さ、忠敬は歩き続け、
地図を完成させたが、
実測せずに完成させた。
赤水も天才と言わざる得ないだろう、
これを、どうやって作るのだ。
凡人の私には、全く解らない・・・
なのだが、それ以前にも、
石川流宣(いしかわ とものぶ)
江戸時代の浮世絵師が1961年に作った。
木版地図の「流宣図」なるものがあり、
「流宣図」「赤水図」「伊能図」と、
変化していくのだが、
掘り下げれば「幸安図」なる物もある。
森幸安(もり こうあん)
と、話は終わらなくなるのだが、
以前、明治39年のブランデーの記事を、
書いた時、水戸光圀から始まった。
「大日本史」が完成した年と、
誰かがずっと引き継がれていたと、
そう、その一人が、
地理誌の執筆に75歳まで努力した。
長久保赤水である。
1801年85歳で、
赤浜村でその生涯を終える。
私もそうだが、
何事も上辺だけで判断しては、
北方領土の戦争発言になる・・・