黄昏ウイスキー  TWILIGHT WHISKY

大阪は京セラドーム前の小さな本格的BAR「BARin」の日記 

眼の無い自画像

先日、休日の早い時間に最近よく来られる男性に、
幸徳秋水は決着しまいたか?」と尋ねられた。
「ええ、一応は・・・」


そう、大阪は西区のお寺に「幸徳秋水」の墓があったと、
と言う記述を見つけてから、
長い長い旅が始まり、
最終的に一冊の本に辿りついた。

「眼の無い自画像」〜幸徳幸衛の生涯〜(木村林吉)

この本を見つけた時に、
全ての謎が解けたように思ったのだが、
送られて来た本には、
私の仮説を裏付ける核心は書かれていなかった。


では私の仮説とは、
してこの本の主人公、
「幸徳幸衛」とは何者なのか、
この方「幸徳秋水」の甥にあたる人物で、
海外でも活躍した画家なのだが、


私が着目した点は、
実はこの方大阪で亡くなっているのだ。


大阪は西成区の旅館、
僅か43歳の生涯だった。
この方、「幸徳秋水」が刑死してから、
海外で活躍しているとの朗報に、
親族や地元の方々は期待し、帰りを心待ちにしていたのだが、


帰って来たその姿は汚く、
酒を一時も離せないアルコール依存症だったようだ。
そして43歳で大阪で亡くなる。
死因は少々書きづらいのだが、

湯たんぽだった。
湯たんぽで金た・・・
いや睾丸を火傷、
そこにばい菌が入り炎症をおこすが、
破傷風とも肺炎とも言われている。


なのだが、
何故か親しみを感じられずにいられなかった。
多分酒での失敗だったのだろう、
そして阿倍野の斎場で荼毘に伏される。


ここなのだが、
大阪で亡くなり大阪で葬儀された。
「幸徳幸衛」
アル中とは言え、
絵は沢山残している。


絵は画家が亡くなると、
必然的に値段は上がる。
昭和8年、
まだまだ「幸徳秋水」への風当たりは強かったはず、
墓に鉄格子のような物があったと言うのは、
何度か読んだ。


事件が起き80数年が経った時、
秋水の記念碑が建てられたが翌日、
セメントで塗られたと言う記述も読んだ。
墓にも心無い悪戯が多々あったのでは、
それを避ける為に・・・


しかしこの著書では遺骨は引き取られ、
秋水の眠る「正福寺」に埋葬されたと書かれているのだが、
私の仮説は、
そう西区「竹林寺」に30年以上前まで、
眠っていたのは、
「幸徳幸衛」だったのでは無いのだろうか、


一番可能性が高いように思う、
昭和8年、まだまだ特高警察も目を光らせていたはず、
そしてその後戦争に突入、
竹林寺」も大阪大空襲の餌食に、
あらゆる書類は燃え、何も解らなくなった。
その後秋水の関係者か親族が幸衛の墓を見つけ、
その時四国は「正福寺」に移したのでは、
その頃なら秋水の汚名も晴れていたはず、


私はこの「謎」のお陰で又色んな事を覚えた。
現在放送されているNHK「八重の桜」に於ける。
新聞の力の大きさ、
当時の新聞の力は現在では考えられないほど、
強大だったのだろう、
それを操る「幸徳秋水」も又、政府からの弾圧も当然であろう、
強大故に全ての新聞への政府の風当たりも強かったのであろう、
秋水もその犠牲者の一人なのだろう、


かなり中途半端な結果なのだが、
一応の結論が自分の中では出た。

西区「竹林寺」にあった墓は、
正確には「幸徳秋水の甥」
「幸徳幸衛」だったのでは無いだろうか・・・


数ヶ月に渡りこの事件を色々と調べた。
幕末から明治の時代背景を別の角度から、
見つめる事が出来た。
この時代では片手で天皇陛下に手紙を渡すなど、
考えられないだろう・・・

最後に「幸徳秋水」の絶筆を紹介しょう、


「こまごまとした成功失敗について、
今あげつらうのはやめよう。
 人生への意気込みを捨てぬことこそ、
古今を通じて大切なことだ。
 このように私は生きてきて、
このように死んでいくが
 罪人となってあらためて無官の平民の尊さを覚えることができた。」
神戸大学名誉教授 一海知義先生の解釈による)

またいつの日か振り返ろう・・・・



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