龍馬暗殺の謎、
郡山藩士の活躍、そして土佐十一烈士等を書いてきたが、
書けば書くほどアクセスは下がり、
店は暇になるのだが、
元々BARの無い町にBARを出す等、
自虐的な人生を歩んできているので、
性格だと割り切ろう、
そこで「大逆事件」
「幸徳秋水」を取り上げたのだが、
元々歯槽膿漏はあっても、
思想の欠片も無い私に語る価値など無いのだが、
一点、妙な記述を目にした。
幸徳秋水の墓が以前あったと、
それが大阪は西区の「竹林寺」
では何故、
秋水の墓がこの寺にあったのか、
その経緯が知りたく、
悪戦苦闘の日々、
関係者の数は膨大、
次々と色んな方が出てくる。
これは人生の何分の一かを失いそうだ。
そこで、聞きに言った。
向かうは「竹林寺」
中に入りインターホンを押した。
これは堺は「宝珠院」と同じ・・・
住職は不在のようだったが、
多分奥様かと思われる上品な年配の女性が対応してくれた。
「幸徳秋水の墓があったと聞いたのですが」
「はい、ありましたよ」
「・・・・・」
あったのか本当に、
無かったことを祈っていたのだが、
そうなると何故?
「それが解らないんです」
「・・・・・」
解らないのか・・・
「誰が立てたのかも解りませんか」
「それも解らないのです」
「・・・・・」
これ余計に大変な事になった。
検索の虫が騒ぐ、
私は「竹林寺」違いなのではと思っていた。
大阪は千日前にもあった「竹林寺」
四国は高知にもある「竹林寺」
いや、各地にもあるのだが、
寺違いかと思っていたのだが、
ここのようだ。
そして何故何も解らないのか、
これを見れば解るのだが、
昭和24年3月未明、
そう大阪大空襲だ。
これで全ての書類が焼失している。
確かにこの寺には「焼け地蔵」と言う、
右手がなく黒く変色した地蔵さんがある。
そしてその時、悲劇が起こる。
松島の遊女、勝手に外に出れない遊女達、
何と三百名近くが焼死し、
このお寺で荼毘に付されている。
この寺も又、戦争を戦ってきたのだ・・・
話しを戻そう、幸徳秋水の墓があったと、
が、遺骨が眠っていたとは考えにくい、
多分遺品なのでは、
では何故高知に移したのか、
「見つけられた方が高知に持っていた方がと、
25年か30年か前に・・・」
それもよく解らないようだ。
が、親切に対応して頂き、
ありがとうございました。
この場を借りてお礼申し上げます。
が、しかしその日から又、
パソコンと一体化している・・・
何故「幸徳秋水」のお墓が大阪は西区の「竹林寺」にあったのだ。
そして誰が建てたのだ。
秋の夜と同じように謎は深まるばかりだ・・・
会話の中で奥様が言われた「ただひっそりとあったのです」の一言が、
妙に胸に詰まった・・・
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