黄昏ウイスキー  TWILIGHT WHISKY

大阪は京セラドーム前の小さな本格的BAR「BARin」の日記 

堺の町をあちこちと・・・4

堺の旧灯台、大浜公園を後にして、
目指すは海にそびえ立つ、
自由の女神のような像、

名を「龍神女神像」


明治36年(1903年)第5回内国勧業博覧会の際に、
堺会場の東洋一を誇った大浜水族館前に設置されました。
水族館があったのか・・・


博覧会終了後、水族館とともに堺市が譲り受け、
像は平和と繁栄のシンボルとして、「乙姫さん」の愛称で親しまれましたが、
臨海工業地帯の建設や第2室戸台風の影響などで、
廃館となった水族館の解体とともに撤去されました。
平成12年(2000年)7月、市制110周年記念事業として、復元建設されたもので、
高さ16mの石張りの台座上に10mのブロンズ製の乙姫像が立ち上がっています。
しかし、凄い迫力だ。


ベンチ等があり、夜は雰囲気がいいのでは、

何度か来た事があるのだが、
この像の傍に、
こんな物があった。


幕末の堺港を語る標柱石
 標柱石は北波止の突堤から出土したようだ。
これは、 港に出入りする船の 運行上注意を促すための物だったようだ。


そして知らなかったが、
かなり大きな石碑が、

「吉川俵右衛門」

では解説しょう、
吉川俵右衛門は宝永元年(1704年)の大和川の付替え以来、
土砂がたまり船の出入りに支障をきたしていた。
堺港の修築に功績のあった人物です。
俵右衛門は江戸浅草の商人でしたが、
商用で訪れた港の様子に一念発起し、
堺商人の協力もとりつけて寛政初年(1790年)頃に修築を開始します。
多くの困難を乗り越え、
文化7年(1810年)までのおよそ20年がかりで工事は完成し、
現在の堺旧港の原型がこの時つくられました。


のようだが、
何故、「吉川俵右衛門」は一念発起したのか、
江戸の商人なのに・・・
謎だ・・・
しかし、20年も掛けて、
その間、どうやって食べていたのだろうか、
謎だ・・・


そして、し、しまった・・・
時間が無い・・・
又、来よう、
最後に堺浜の天然温泉「祥福の湯」
ここで汗を流した。

ついでに食事も、
なかなか人気のあるスーパー銭湯
座敷もゆったりしている。

しかし、ハイテクのタッチパネル

水菜と大根のサラダ

で、でかい・・・


そして台風チャーハン、
いや、タイ風チャーハン、

あ、熱い・・・


そして、この夜、
早い時間から、満席、満席、
道頓堀プロレスのレスラー達も来てくれて、
大盛況だった。


最後に、何でも知っているようで、
結局何も知らず、
自然に今のこの便利な世の中になったと、
そう思い込んでいた。
違う、多くの先人達が、
今を作ってくれたのだ。


そういう方々に改めて感謝すると共に、
この日行けなかった場所がある。
日本人として、ここに行かなければ、
日本人では無い、
風呂に入っている場合でもない、、
そう思わせる壮絶かつ凄惨、
いや、言葉では表せない、


想像を絶する出来事が堺にはある。
近々お伝えしよう、
日本人として、知ってて当然の出来事だ。
では、お楽しみに!

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