黄昏ウイスキー  TWILIGHT WHISKY

大阪は京セラドーム前の小さな本格的BAR「BARin」の日記 

酒通信 ミリオンダラー 

一度、しっかり書いておこう、
「ミリオンダラー」とういう、
カクテルなのだが、
これが意外と長くなるのだ。
まずは、舞台は横浜、


日本初のBARも「万延元年」(1860)
外国人居留地に出来た木造二階建て「横浜ホテル」
この中にビリヤードが出来るBARがあったそうだが、
そのビリヤードなのだが、どうもビリヤードでは無く、
違うゲームだったようだが、現在詳しく調べています。
この時代は幕末、まだ「マティーニ」も存在していない、
その横浜に、時は過ぎ、


明治23年(1890)
横浜グランドホテルに、
サンフランシスコから、「ルイス・エッピンガー」
という人物が支配人としてやって来るのだが、


この人物がまずは「バンブー」と言うカクテルを
考案する。この「バンブー」(竹)と言うカクテルは、
今でも、たまに出る。人気の衰えない不思議なカクテルなのだ。
日本初のカクテルなのだが、
これは当時アメリカで流行した。
「アドニス」と言うカクテルに、
手を加えたものだった。


その数年後、純正日本生まれのカクテルが誕生する。
それが「ミリオンダラー」なのだ。
これも「ルイス・エッピンガー」氏の創作なのだが、
明治時代ではあくまで誕生するだけなのだ。
このカクテルが大流行するのは、大正期(1912〜26)
なのだ。何故か?


それは、作り手、そうバーテンダーのスターがこの時代に居たのだ。
名前は「浜田晶吾」
草創期の日本の名バーテンダーである。
「浜田氏」は大正元年(1912)にグランドホテルのBARに、
三年後バーテンダーに昇格する。
そして大正十一年(1922)
数々の名バーテンダーを輩出した「東京會舘」が、


皇居前に出来る。これは首都東京に社交施設をと、
ルネッサンス風、五階建ての建物で上流階級の為の
社交場だった。
そこに「浜田氏」は別格のバーテンダーとして、
招かれるのだが、
翌年、大正十二年(1923)と言えば、
そう、「関東大震災」で、
東京會舘」は営業不能に陥る。


どうなる名手「浜田」・・・


     つづく・・・