浪速区にある「木津の勘助」の史跡を、
少し回ったが、
我が町「大正区」には無いのか?
いや、三軒家地区の、
「上の宮八坂神社」に、
それはある。
これはかなり新しく、
昭和50年代に建てられたようだ。
神社の裏側にって・・・
これ、勝手に入ったのだが、
すいません・・・
かなり老朽化している。
のでは無く、戦争だ・・・
空襲を受け、
その時、神社は焼失している。
これは辛うじて残ったのだろう、
知る事は簡単で、知った上でどうなのか?
それが大事、これはあくまで私の意見なのだが、
若者や、子供達に見せるなら、
こちらの碑を見せるべきではないだろうか、
町の歴史も神の社も何もかも、
燃やし、傷付ける。戦争の爪痕を、
勘助さんが苦労して建てた神社を燃やした。
人を人と思わぬ、焼夷弾がここにも落ちて来た事を、
無言で物語るこのひび割れ、傷ついた碑、
しかし、この碑を見よ!アメリ・・・
今でもここに凛と立っているではないか、
まるで日本人を象徴するかのように・・・
焼野原から、立ち上がり、
これだけの豊かな国にした先人の苦労を、
知る上でも、こういう石碑は、
何物にも変えれない、
なら、何故、焼夷弾、若しくは、
機銃掃射の嵐の潜り抜けた。
こういう碑が大事なのでは?
言葉だけの反戦なのか?
ファッション、スタイルとしての反戦なのか?
これでは、臭い物に蓋をするではないか?
矛盾を感じざる得ない・・・
まあ、「お前がやれ!」と言われたら困るので、
話は変わり「大正区」の基盤となった。
「勘助島」なのだが、
その前に「姫島」と言う記述がある。
この「上八坂神社」の中に、
「姫島龍神社」と言うのがあるのだが、
これが何か関係があるのか?
と、調べたのだが、多分何か所縁があると思うが、
決定打がなかった。
「姫島」の他に「葦島」
今でも地名はあるが「難波島」等と言う、
記述も見つけたが、これ、全部あったのでは?
木津川の小島で、
これを繋ぎ合わせ、
「勘助島」となったのでは無いだろうか、
そしてそれを勘助さんが開発し、
「大正区」となったと、私は思う、
今回、銅像や石碑、
色々と見てきたが、
いかに「木津の勘助」さんが、
民衆に愛されたのか、
それを強く感じた。
特に「大黒主神社」の銅像は、
国の許可を取るのにかなり苦労されたような、
記述を見つけた。
その銅像の裏側に、
その苦労された方の名前が、
刻まれていた。
ん?んん?
初代南福・・・
南福・・・
これは・・・
「南の福」と言えば、
「北の赤万」・・・
「小林佐兵衛」
「伝法の安」・・・
鳶の・・・
「木津の勘助」さんの像の、
足元である事が全ては繋がった・・・
「土佐十一烈士」
数年前に調べた幕末「堺事件」
その時、拳銃を撃ち放つ、
巨漢の男達、フランス軍に、鳶口一つで
立ち向かった恐れを知らぬ男が居た。
名を鳶の・・・
封印していた事なのだが、
やはり、書けと言う事なのか、
えらい物を、えらい所で見つけてしまった。
まあ、そのうちに・・・
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