「香櫨園駅」から、
「夙川」の下流へ、
歩け、歩け、
途中よく解らんが、
見ず知らずの、
凄いおじさんに力を貰い、
後、少し、
目指すは、
「火垂るの墓」に登場する。
「西宮 回生病院」
玄関部分が、今年一杯で解体が決まった。
それを知ってから、
この阪神電車の旅が始まった。
先人の苦労を知る為に、
出来るだけ歩こうと、
沿線をひたすらトボトボと、
しかし容赦なき炎天下に行く手を遮られた夏、
涼しくなった今、
節子と清太に会いに、
私はやって来た。
戦後70年、
今しか無いのだ。
が、現実とは常に無常なもの、
「夙川」の河口付近に、
あるはずの「回生病院」
時既に遅し・・・
残酷な事実が目の前にあった。
「火垂るの墓」に登場する。
「回生病院」の玄関は、
消えた・・・
何か申し訳ない気持ちと、
自分に対する腹ただしさが芽生えた。
そのままフラフラと海へ、
節子が海水浴をする。
「香櫨園浜」「御前浜」
ここも70年前には戦争があったのか?
にわかに信じがたい、
砂浜に立った私は、
何故そうしたのかは解らないが、
この浜で座り込んだ。
しかも正座で、
どれぐらい時間が流れただろうか、
そして、何と言う時間だったのだろうか、
その時間の流れを、
何と名付けたらいいのだろうか、
海面を眺め続けた。
戦争が終わり20年も経たない頃、
私は産まれ、そして50年以上が経った今、
この海を前に何を思い、
何を考えたのか、
いや、ただただ先人の皆様方に、
ありがとうと伝えたかった。
それだけだったのだろう、
大空襲の時、
遺体が二重にも三重にも積み重なっていたと、
おばあさんがTVで話していた。
「西宮 回生病院」を
背にして・・・
私の戦後70年はこれで終わります。
戦後70年、戦争に行かれた方のご苦労は勿論ですが、
内地で戦った方々、西宮大空襲の夜、
市民は懸命な消火活動を続けたと言う記述があった。
それが何だったのか、何故そうなったのか、
意味を問うことは止めよう、
ただ、自分の子や孫が、いや、日本中の、
いや、世界中の子供達が、
二度とそういう目に遭わないように、
この国を導く事等、私には到底出来ません、
が、ならばせめて、こういう事実があった事を人に伝え、
己も忘れぬと言う努力を続けて行こうと、
国民の休日の日に、
そう思った・・・
ところであなたの戦後70年は?
私の言いたい事は「中島みゆき」さんが全て歌っています。
あえて「徳永英明」さんで
そんな時代もあったねと・・・
今日の風に吹かれましょう、
今日も倒れた旅人達も、
生まれ変わって歩き出すよ
「歩け、歩け、続ける事の大切さ」
「香櫨園浜」「御前浜」詳しくはこちらで ↓
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