「大阪人が支えた国産ウイスキー」
書きたい事は沢山あったのだが、
これを大阪人に伝えたかった。
まずは大阪は住吉にあった。
「摂津酒造」「阿部喜兵衛」の計らいで、
スコットランドに留学、
そして、大阪人「鳥井信治郎」氏の元で、
国産ウイスキー第一号を完成させる。
考え方によっては、山崎蒸留所は竹鶴氏にとっては、
試作第一号だったかもしれない、
この山崎設立に関しても、
既に竹鶴氏は「余市」を候補に入れていたが、
鳥井信治郎氏は「多くのお客さんに
(蒸留所を)見てもらわなあかん」
と、京都と大阪の県境を選んだ。
これも、技術と営業を象徴するエピソードだが、
この事によって、いまだにサントリーのウイスキーは全て、
山崎で造られていると思っている人は後を絶たない、
思惑通り、いや素晴らしい営業力、
その後、竹鶴政孝氏がニッカの前身である。
「大日本果汁株式会社」を設立させた時に、
支えた男達が居る。
莫大な資金が掛かるウイスキー造り、
そして最低でも数年と言う時間が掛かる為に、
まずは、ジュースを造りを始めた。
100%のリンゴジュース、
しかし、高品質の為に、高価な物になり、
あまり売れなかった。
やはり立ちはだかるのは値段、
安いか、高いか、幾ら良い物を提供しても、
値段で決められるのはいつの時代も同じ、
生のオレンジ、生のグレーププルーツを、
しぼり作るカクテルと、
紙パックのジュースで作るカクテルでは、
飲まずとも味の違いは容易に判断出来る。
しかし、民衆はそこに重きを置かない、
悲しい事だが仕方が無い、
その「大日本果汁株式会社」
日本の(ニッ)果汁の(カ)を取って、
後に(日果)「ニッカ」となる。
その「大日本果汁」を支えた男達だが、
大阪の大地主、
「千島土地株式会社」
四代目当主、そう「芝川又四郎」氏は、
旧知の中ののちの「加賀証券」社長、
大阪生まれの実業家「加賀正太郎」と共の出資、
大山崎山荘美術館は、
元は「加賀正太郎」氏の山荘、
しかしその100%のリンゴジュースは、
売れないに続き、トラブルが続出、
苦難はますます膨らみ、
同じく借金も膨らみ、
創立2年で暗礁に乗り上げ、危機を向かえる。
大スポンサーであった「加賀正太郎」が、
会社を投げ出さねばと、
弱腰になっていた。
そんな時、大阪で開かれた役員会で、
その危機を救ったのが、
リタ婦人が奥様と娘さんに英語を教え、
家族ぐるみの付き合いをしていた。
帝塚山の洋館の大家「芝川又四郎」だった。
「琥珀色の夢を見る」(松尾秀助氏)によると、
その芝川が声を上げた。
「1,2年で事業を投げ出すものでは無い、
加賀家が協力する限り、
私は竹鶴の技術を信じてどこまでも
守り立てる覚悟である」
何たる毅然とした態度、
大阪人の、損得勘定のイメージを一変させる。
実に痛快かつ豪快、なんと温かい言葉、
支えた男達は他にもいる。
大阪人では無いが、
私のブログを前から読んでいる方は、
すぐに気付くだろう、
「柳沢保恵」(やなぎざわ やすとし)
そう旧大和郡山藩主「柳沢保申」の養子、
我が祖先のゆかりの藩「柳沢家」
竹鶴とはイギリス留学時代に出会っているのだ。
将棋の「坂田三吉」を援助したことでも有名、
そして最後に、ウイスキーを愛する者として、
この町でBARを営む者として、
バーテンダーとして、
誇らしくかつ驚きの記述を見つけた。
これは本当なのか・・・
本当なら、最後は大阪の著名人では無く、
大阪の下町の親父達の力が、
エネルギーが、技術が塊りとなり、
ニッカウイスキーを誕生させる事になる。
正しく「大阪ウイスキー物語」
つづく・・・
芝川家、加賀家と竹鶴政孝の関係は、
ここに詳しく書かれています。
興味のある方はどうぞ↓
「千島土地 アーカイブ・ブログ」
blog.goo.ne.jp