黄昏ウイスキー  TWILIGHT WHISKY

大阪は京セラドーム前の小さな本格的BAR「BARin」の日記 

大阪ウイスキー物語 11

「大阪人が支えた国産ウイスキー

書きたい事は沢山あったのだが、
これを大阪人に伝えたかった。
まずは大阪は住吉にあった。

「摂津酒造」「阿部喜兵衛」の計らいで、
スコットランドに留学、
そして、大阪人「鳥井信治郎」氏の元で、
国産ウイスキー第一号を完成させる。


考え方によっては、山崎蒸留所は竹鶴氏にとっては、
試作第一号だったかもしれない、
この山崎設立に関しても、
既に竹鶴氏は「余市」を候補に入れていたが、

鳥井信治郎氏は「多くのお客さんに
(蒸留所を)見てもらわなあかん」
と、京都と大阪の県境を選んだ。
これも、技術と営業を象徴するエピソードだが、


この事によって、いまだにサントリーウイスキーは全て、
山崎で造られていると思っている人は後を絶たない、
思惑通り、いや素晴らしい営業力、

その後、竹鶴政孝氏がニッカの前身である。

大日本果汁株式会社」を設立させた時に、
支えた男達が居る。
莫大な資金が掛かるウイスキー造り、

そして最低でも数年と言う時間が掛かる為に、
まずは、ジュースを造りを始めた。
100%のリンゴジュース、
しかし、高品質の為に、高価な物になり、
あまり売れなかった。


やはり立ちはだかるのは値段、
安いか、高いか、幾ら良い物を提供しても、
値段で決められるのはいつの時代も同じ、
生のオレンジ、生のグレーププルーツを、
しぼり作るカクテルと、

紙パックのジュースで作るカクテルでは、
飲まずとも味の違いは容易に判断出来る。
しかし、民衆はそこに重きを置かない、
悲しい事だが仕方が無い、


その「大日本果汁株式会社
日本の(ニッ)果汁の(カ)を取って、
後に(日果)「ニッカ」となる。


その「大日本果汁」を支えた男達だが、
大阪の大地主、
「千島土地株式会社」
四代目当主、そう「芝川又四郎」氏は、
旧知の中ののちの「加賀証券」社長、
大阪生まれの実業家「加賀正太郎」と共の出資、

その後にアサヒビール山本為三郎」氏に、
株を譲渡する。

大山崎山荘美術館は、
元は「加賀正太郎」氏の山荘、

しかしその100%のリンゴジュースは、
売れないに続き、トラブルが続出、
苦難はますます膨らみ、
同じく借金も膨らみ、

創立2年で暗礁に乗り上げ、危機を向かえる。
大スポンサーであった「加賀正太郎」が、
会社を投げ出さねばと、
弱腰になっていた。

そんな時、大阪で開かれた役員会で、
その危機を救ったのが、
リタ婦人が奥様と娘さんに英語を教え、
家族ぐるみの付き合いをしていた。

帝塚山の洋館の大家「芝川又四郎」だった。
琥珀色の夢を見る」(松尾秀助氏)によると、


その芝川が声を上げた。
「1,2年で事業を投げ出すものでは無い、
加賀家が協力する限り、
私は竹鶴の技術を信じてどこまでも
守り立てる覚悟である」
何たる毅然とした態度、

大阪人の、損得勘定のイメージを一変させる。
実に痛快かつ豪快、なんと温かい言葉、


支えた男達は他にもいる。
大阪人では無いが、
私のブログを前から読んでいる方は、

すぐに気付くだろう、
「柳沢保恵」(やなぎざわ やすとし)

そう旧大和郡山藩主「柳沢保申」の養子、
我が祖先のゆかりの藩「柳沢家」
竹鶴とはイギリス留学時代に出会っているのだ。
将棋の「坂田三吉」を援助したことでも有名、

そして最後に、ウイスキーを愛する者として、
この町でBARを営む者として、
バーテンダーとして、
誇らしくかつ驚きの記述を見つけた。
これは本当なのか・・・


本当なら、最後は大阪の著名人では無く、
大阪の下町の親父達の力が、
エネルギーが、技術が塊りとなり、
ニッカウイスキーを誕生させる事になる。


正しく「大阪ウイスキー物語」

          つづく・・・
芝川家、加賀家と竹鶴政孝の関係は、
ここに詳しく書かれています。
興味のある方はどうぞ↓

「千島土地 アーカイブ・ブログ」
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