黄昏ウイスキー 

大阪は京セラドーム前の大人の小さなBAR「BARin」の日記 

戦友

昨夜、日本が優勝したようだが、
それは、それで嬉しい事だ。
今回も「旭日旗」は揚がっていたのだろうか?


又、複雑で、重い話を書こうとしている。
こういう事を書くと、売り上げが下がるのは、
統計的に解って来たが、多分何らかの病気なのか、
直ぐに書いてしまう、しかし、店は、店、
ブログはブログだと私は思うのだが、共通する点は、
同じ人と言うだけで、私はここでは商売はしていない、
あくまでも告知止まりだ。



形態が違うものを同一視するのも、どうかとも思う、
ブログの事で、店に意見を言うに来る人もいるが、
それはそれでいいのだが、あまり混同して考えると、
秋葉原事件の馬鹿と同じになる。


ここには、コメントと言う機能がある。
ブログの事はブログで、
そこに全国に向かって、広く自分の意見を書かれた方が、
正々堂々感があって、良いのでは無いだろうか?
私にだけ言えば、一面的になってしまう、と、思うのだが、
まあ、それはそれで、私にとっての課題でもあるのだが、


先日「旭日旗」の事を書いた。
今の人と言うか、世間の人達がこの「旭日旗」に対する
思いとはどういうものなのか?と、言う事が気になって来た。
一度も聞いた事は無いのだが、おとんの言ってた事などを、
色々と考え、整理した結果、私が思うに、
日章旗」(日の丸)=「天皇陛下
旭日旗」=「大本営」(戦時中の最高司令部)
と、言う考え方が、おとんにはあるようだ。
天皇陛下」には見捨てられたとは言わないが、
大本営」には見捨てられたと言っていた。


その事に対して、関係があるか無いか、又、どういう事を感じるか、
それは私には解らないのだが、私の幼い時の事を話してみたい、
我が家の正月の話だ。正月は何日かに渡り、


おとんの戦友が尋ねて来るのが通例だ。
私にとっては嬉しい話だ。
そりゃ〜年玉が貰えるからだ。
だが、酒が進み、お開きが近づくと
必ず始まるのが全員での大合唱だ。
「ここは〜お国を何百里〜」
そう「戦友」という歌だ。


この歌なのだが、不思議な事ある。歌詞をよく見たら解るのだが、
戦意を高めようとか、そういう意味合いが無い、
軍歌とは、一様に戦意高揚等の目的を含んだものが多いが、
何故か、この歌には、反戦のようなものまで、感じる。
遠く離れた場所から、切なく母国を偲んだ歌だ。


しかし後半は何を歌ってるのか、解らなくなって来る。
確か、「時計ばかりが、コチコチと、、、」の辺りからだ。
最後は、爺さん達とおとんは、肩を抱き合い、丸くなり、うずくまり、
頭を突合せながら、子供のようにオイオイと大声で泣くのだ。
何度か死に直面した者同士、襖の隙間から垣間見るその世界は、
幼い私には、不気味さのようなものまで感じた。


長い長い間、それは続く、鼻水をすする音が部屋中に響く、
それが治まると、何事も無かったように皆帰っていく、
それが毎年の、我が家の正月の風景だ。
多くを語らないおとんと、戦友の爺さん達だが、
私達には考えさえ及ばない、恐ろしい経験をして来たのだろう、


そして、歳を重ね、一人、又、一人と
尋ねる人が少なくなり、私の年玉も少なくなった。
皆、時が来たのだ。
ある年、ついに誰も来なくなった。
おとんが一人で大声で歌うようになった。
たった一人で、、、


皆、いい人達だった。
いつも来ていた。
堀口のおっちゃんは、
体に銃弾が入ったままだったそうだ。
葬式の時、それが出てきたらしい、
親族がそれを骨壷に入れたと、
おとんが帰ってきて、怒っていた。


おっちゃんがくれる年玉は、ピンピンの新札の
五百円札だった。それを大きな袋に入れ、
しわがつかないように、渡してくれたのだが、
何年たっても、五百円札のままだった。
凄く嫌だった。だが、今思えば、
おっちゃんにとっての五百円札は、当時は大金だったのだろう、、
それをケチなおっちゃんと思った私が、
今になっては恥かしい、、、


「戦友」の大合唱も理解出来る歳になった。
当時は、正直、大声で歌う爺さん達は嫌だった。
そりゃ〜表まで聞こえる大声だ。
恥かしくて、しょうがなかった、、、


これが、私が幼き日に見た。間接的な戦争だ。
そして育ってきた家庭環境だ。
それほど遠くも無い昔、おとんと、戦友のおっちゃん達は、
弾の入っていない、38式歩兵銃を担ぎ、満州に渡った。
旭日旗」と共に、、、